ひとときの舞台「チャーリー」企画紹介

この度はひとときの舞台『チャーリー』に興味を持ちホームページまで足をお運びくださり誠にありがとうございます。原案の坂口愛彩です。

この企画に携わってくださっている、脚本、演出、プロデューサー、キャスト、美術、音楽、照明、制作、その他スタッフの皆様、そして協賛してくださっている企業の皆様に心より感謝申し上げます。

皆様がお一人お一人この作品に関わり、解釈や価値観をぶつけながら出来上がっていく本作品は私が思い描いていた原案の形よりも何倍も何十倍も大きな冒険船となってこれから大海を渡り観客の皆さまのもとへ向かうことでしょう。

このワクワクと熱い想いがどうか、観客の皆様へ届きますように、大変恐縮ながら皆様のお時間をいただき、ひとときの舞台『チャーリー』について重要なテーマ・問いかけについていくつかお話させてください。

これを読んで舞台を観劇してもらって、その後感想やご意見を個人的に送っていただけましたら飛び上がるほど嬉しいです。堅苦しい文も読みづらいのでエッセイ調にしてみました。ふざけた言い回しや文体をご容赦ください。

SDGsと正義

世間ではSDGsや環境保護を大命題と謳う企業や個人が増えてきた。特に日本ではSDGsバッジを誇らしく胸ポケットにつけて町中を闊歩しているひとや、電車広告でもカーボンニュートラル輸送!のような環境ワードが飛び交いある意味、SDGsやっていかないと気運はかなり高まっていると思う。

しかし、何故世界中のみんなで掲げている2030年までのゴールなのに到底届きそうな感覚がないのか、私たちが本音と建前の矛盾を感じ続けているのも事実であろう。そしてその矛盾を私は舞台「チャーリー」の中で描きたかった。

この矛盾感が生まれる大きな理由の一つに「資源量の不公平性」が挙げられるだろう。各国の国土の広さ、開発発展度、人口密度、人の生活を支える資源の量、宗教や文化的価値観は様々なのに一致団結してこの目標に向かっていかなければならない。国際社会においてその場合、「少なく持つもの」が「多く持つもの」に不平等性を訴えるまたは助けを求めるケースは必ず起こり得る。

例えばSDGsは2015年に当時193カ国で取り決められた目標だが、その遂行に消極的な国をあげていくと多くはアフリカ諸国の発展途上国である。環境破壊を先導してきた先進国が主だって進行し決定したその目標は、発果展途上国の発展を妨げるものではないか?何故先進国が侵してきた環境破壊の尻拭いを私達がしなければならないのか?彼ら(先進国)は我々(発展途上国)を、我々の資源を搾取することしか考えていないのではないか?

人から助けを受けられなかった傷は、他人に助けを与えないという代償として昇華される。

そして私たちはその負の連鎖によりコミュニティを核化し自己(自国)防衛心のみを膨張させ、いつしか人と人とのつながり、人と自然とのつながりを忘れるようになる。痛いや辛いを言えず、損得勘定を持って助け合い、自分に都合の悪い他人は切り捨てる。日常生活に当てはまる大人はたくさんいるのではないだろうか。私達がこの矛盾を解消するためにできることは何かあるだろうか。

「木を植えよう、未来のために」

人類は常に木とともに生きてきた。日本では縄文時代から木を使った狩猟道具や家が見つかり、弥生時代には農耕用具や器、燃料に木は使われてきた。奈良時代以降には植林が始まったとされ、時代の衰勢とともに木の消費量や生産量は人の手によって古くから管理されてきたのである。

戦後、街の復興のために使われた木は人々に新たな生活の基盤を与え、その恩恵を享受する先人たちは未来へバトンを繋ぐために伐採した山々に木を植えた。それまで私達の発展の側にはいつも木があった。

高度経済成長期以降、建築材はセメントに、包装はプラスチックに形を変え、安価な木材を海外から輸入することによって、国産木材の需要が減少し始める。人と共に生きてきた山には人の手が介在しなくなり、放置され、弱った土壌は土砂災害や水質汚染などで人の生活にも被害を及ぼす。言うまでもないことだが、人の手がすでに介在した山は常に伐って、植えて、お世話をしていかなければならない。

サステナブルという言葉が世の中に出てくるもっと以前から、私達は持続的な資源の活用として山との共存を果たしてきていた。しかしそれを継続する知識・経験・知恵は現代に生きる私達の日常から離れて、ごく一部の人たちにしか継承されていない。

私達はさらなる発展のために無限のエネルギー効率を求める。そしてより効率のいい新たなエネルギー源を奪い合うことで人同士、国同士、人間と自然とのバランスを崩し自然や動物は声を発しない人間にとっての資源として搾取される。

人は「いまある自然の恩恵を分け合い、頂いた分はお返しする」という精神を捨ててしまったのか。人はさらなる発展を求めて新たなエネルギーを創り出したり自然の中から発掘し探し求め続けることは正義と言えるのか。

これらのテーマを持って、舞台チャーリーの中で何を感じたか是非鑑賞後教えていただきたいです。皆様それぞれに解釈が分かれることを期待し楽しみにお待ちしております。素敵な作品になるように一丸となって本番を迎えます、皆様のご来場を心よりお待ちしております。

2024年6月21日
株式会社レックエーシー
代表取締役 坂口愛彩

おまけ:『チャーリー』の由来

『チャーリー』いつも父はその謎の男の話をしていた。本当にいるのか幻想の人間なのか、「池袋では知らない人はいないよ」と明らかに真実ではないことを真顔で語る。父は彼が尊敬する人をいつも5倍くらい脚色して語るがなぜか彼の脚色版は真実の物語より面白い。

「俺、チャーリーにあったこと会ってさ、一瞬で心掴まれたんだよ。神様のように見えて、この人に付いていきたいって。ママに猛反対されてさ。」母は常に父が間違った道に行きかけるたびに「自分がケツ拭くんで今回はこいつ勘弁してやってくんねえか」的なかっこいい登場の仕方で父の窮地を救ってきた。

彼が若いときに出会った『チャーリー』という人物は、話を聞く限り、かなりアウトに近いグレーな、でも父にとっては煌々と光り輝くアンダーグランド的人物だったらしい。

ところでそのチャーリーというのは私の記憶にあらたな解釈を加えて説明をすると、池袋のホームレスを5000人ほど束ねて地方選挙のたびにその全員の住所を移し、得票を政治家に売ることで抱えているホームレスの生計を立てていた伝説の男らしい。彼らはホームレスといえど、しっかり屋根の下でその儲けを均等に分け合い何不自由なく生きて行けていたそうだ。

彼は選挙の公平性を求める多くの国民や民主国家の敵であったが、彼を慕う多くの社会的弱者の味方であった。今の時代の良識からはかけ離れた非常にまことしやかな話だが、「もしチャーリーが本当にいた人物なのだとしたら・・」、とやはり今も昔もダークヒーローの物語に心を踊らせる父と私を見て諸行無常を感じるのである。

そんなこんなで父の熱望で舞台名を「チャーリー」とした。(直接的に環境問題や森林保全と繋がらないまことしやかな人物の名を取ったわけだが、キャラクターのどこかにエッセンスを見出してくれたら嬉しい。)